今日はちょっと自分語りの記事を書いてみようと思います。
どんな人生を送ってきたのか。
なぜ海外に飛び出したのか。
なぜフィリピンに住むことになったのか。
これからどう生きていくのか。
そんな話。
学生時代
学生時代の私は学校では口数の少ない子供だった。なぜそうなったのかは分からない。家族や友人とは普通に話すことができた。だが、学校では話しかけられない限り、自ら誰かに話しかけるということはなかった。それでも数少ないながらも小・中学校では友人もいたし、多少の不快なからかいに遭うことはあっても露骨な虐めに遭うこともなかったのは幸運だったのだろう。
高校では誰一人友達ができなかった。いつも一人だった。登校から帰宅までひと言も言葉を交わさないのが日常だった。年に数度、小中時代の友人と会うことはあったがそれも徐々に回数は減っていた。退屈な日々ではあったが、そこでもまた虐めに遭うことはなかったのは幸いだった。
高校は工業高校だった。多くの者が卒業と同時に就職して行ったが、大学に進学する者も少なからずいた。私はというと何がしたいのか分からず、何をしたら良いのかも決められず、ただなんとなく本を読むのが好きだというだけの理由で地元の大学の文学科を受験した。最初から受かるつもりもなく、ただ何も決められない自分を親の目からごまかすためだけの受験だった。
母子家庭である私たち家族の当時の暮らしぶりはとても裕福とは言えず、受験料を自分で支払わなければいけなかったことに正直私は不満を覚えていた。夏休みに1ヶ月間、建設現場で働いて貯めたバイト代だった。受験の申し込み時、切手代を支払えば受験結果を郵便にて知らせてもらえるという選択肢があった。郵便通知は不要、と私は選択した。ただ切手代をケチったのかもしれないし、あるいは子供っぽい反抗心だったのかもしれない。
結果発表当日、会場まで結果を見に行くフリをして外でしばらく時間を潰した私は、帰宅して母にただ一言「落ちた」と伝えた。
フリーター時代
高校を卒業した私はコンビニでアルバイトを始めた。初めての接客業。自分には向いていない。そう思った。それでも優しいオーナー一家の経営するそのコンビニで私は1年半ほど働き続けた。
バイト代でゲームを買って、毎週末遊びに来る兄と共通の友人と一日中ゲームをして遊ぶ日々。夜勤明けに大量のお菓子を買って帰り、兄と弟、友人を叩き起こしゲームをするのが楽しみだった。たまに遠出をすることもあった。深夜のゲームセンター。読み切れないほど買った本。小説家に憧れたこと。毎週のように通った映画館。iMacを買って初めて繋いだインターネット。自堕落な日々。初めての恋。十代を何も得ずにただ消費した。
会社員時代
二十歳になり将来に不安を覚えた私は就職活動を始めた。求人誌に載った小さな広告。初めてのスーツ。通勤用に買った中古の軽。真冬に羽織った大人びたトレンチコートに「僕ももう社会人なんだ」と思った。
地元金沢を拠点に各地を駆け回った。初めて訪れた大阪の都会ぶりに驚いた。2ヶ月掛けて走り回った四国の青い海は今も目に焼き付いている。
その後横浜へ転勤。横浜の従業員の大半は派遣社員やアルバイトが占め、必然と私の背負う責任は大きくなった。昇格しても昇給はなく、むしろ最年少だというだけの理由で派遣社員やアルバイトよりも薄給だった。早朝から日付が変わるまでの激務も、ただ客先から頼られているという一点にやりがいを見出し、続けられていた。しかし、それも担当していたプロジェクトが終わり別プロジェクトへ回されるまでのことだった。
新しい客先は東京だった。満員電車で1時間の通勤、退屈で終わりの見えない業務に退職を考え始める。たまたま職場を訪れた顔見知りのソフトウェア開発会社の経営者に相談すると、一晩で作ってくれたツールで大幅に改善された業務に何だか無性に虚しくなった。
里帰りのタイミングでいくつか地元のIT系専門学校の見学へ行き、退職を決意。
再び学生時代
地元へ帰って3年制の専門学校へ通い始める。特に語るべきこともない時代。時間・費用対効果で言えば、完全に無駄な時を過ごしたのかもしれない。後にフィリピンで就職する際の学歴ロンダリングとして役には立ったか。
就職・半年で挫折
専門学校を卒業し、名古屋でプログラマーとして就職するも半年で挫折。辞めるか・・・。でも辞めてどうする?
そんな時、たまたまネットで目にしたのが世界一周ブログだった。
まだノマド生活なんて一般的じゃない時代。見たこともない景色に、聞いたこともないような出来事に、そしてハラハラするような体験記に魅了された。色々なブログに片っ端から目を通し、旅行記を買い漁って読んだ。
ドキドキした。そして憧れた。自分もやってみようと思った。けど、そこに前向きな理由なんて何もなかった。ただ自分の人生の最後にやりたいことをやって終えようという、後ろ暗い動機だった。
その程度には自分に絶望していた。
世界一周を決意
世界一周を決意した私は仕事を辞めた。とは言え、まずは旅の資金を揃えなければならず、シフト勤務の仕事を始めた。ストレスは溜まるが多少なりとも学ぶことのある仕事でもあった。
長期休暇の際には予行演習がてら台湾に1週間のバックパック旅行へも行った。初めての海外旅行。初日の宿だけ決めておき、後のことは現地で心の赴くままに決めた。台北の雑多な景観は歩いているだけで楽しかった。夜市にワクワクした。九份の雰囲気に魅了され急遽取った宿では、シャワーのお湯が出ずフロントとのやり取りに苦労したこと。電車に乗って食べた駅弁が美味しかったこと。太魯閣の絶景。フェリーに乗って訪れた緑島。島から台北に戻る際の飛行機が墜落しそうなほどボロボロだったこと。最終日に食べた絶望的なまでに不味い日式カレー。
当初、旅の資金だけ貯めてすぐに辞めるつもりだった私は、いつしか「旅を終えた後の生活」を考えるようになっていた。
その程度には自分を取り戻し始めていた。
家族への告知
世界一周を終えた後に日本での生活を立て直すのに十分な額の貯金をして、私は仕事を辞めた。辞めて、世界一周に行くことを初めて母と弟に告げた。出発まで2週間を切っていた。きっと反対されるだろうとズルズルと先延ばしにしてしまっていた。予想に反して何も言わず快く送り出してくれた母の懐の深さ。
出発は関空から。出発前日、当時結婚して大阪に住んでいた兄を訪ね、ここでも初めて海外に行くことを伝えた。動じることなく餞別までくれて送り出してくれた兄と義姉には感謝しかない。
世界一周へ
最初の国はタイだった。タイでの旅に関しては以前、別の記事に書いているので興味を持って頂いたならそちらを読んでほしい。
その後フィリピンに飛んだ私はそこで2ヶ月間英会話学校に滞在する。旅をするのに最低限の英語力を身に付け、再び東南アジアを駆け巡る。
夜の屋台で知り合ったベトナム人、韓国人と共に飲んだマンゴーシェイクの味は今でも忘れない。
プノンペンの夜にどこかその暗さ以上の闇を感じたのは、きっと訪れたトゥールスレン、キリングフィールドの影響による私の錯覚か。
暗い気持ちを振り切るように目指したシェムリアップ。憧れていた自転車旅。照り付ける太陽の下、無心にべダルを踏み続けた。もう限界だ、と思うたびに自分を力付けてくれる何かに出会う。バスの旅では見逃していたであろう景色。飛び出してきて並走してくる子供達。すれ違う大人も子供も笑顔で手を振ってくれる。最後の一滴の水を飲み干した後、ようやく見つけたガソリンスタンドで飲んだコーラが死ぬほど美味しかったこと。
タイの国境。自転車での越境方法が分からず職員に聞いたところ、出国手続き後に戻って来いと言われ進むも、後には戻れず失った自転車。
再び戻ってきたタイ、バンコク。英語学校時代の友人と合流。共に旅をした、それからの掛け替えのない2ヶ月間。そこで私の旅は終わり。空港で泣きながら抱き合って別れた彼はその後無事世界一周を終え、今は東京で働いている。
フィリピン
2度目のフィリピン。取り敢えず2ヶ月の予定。その後旅を再開するかは未定。以前と同じ英語学校で勉強の日々。延長に延長を重ね、結局旅を再開することはなく私の世界一周はアジアを出ないままに終わった。
そこで出会った生涯の友人たち。その内の一人は今もフィリピンで暮らしている。
私に会うためフィリピンを訪れてくれた元同僚。彼もまた今では大切の友人の一人だ。日本にいた頃には考えられなかった。
その後もフィリピンに滞在することになった経緯は割愛するが、端的に言うなら生涯の伴侶を得たためだ。
暖かい気候に大らかな国民性も気に入っている。あまりの大らかさに呆れることもあるが。
今の自分
生涯の友人と愛すべき妻。
掛け替えのないものを得はしたが、それで結局私自身が何者かになったのかと言えば、何も成し得ないままに歳だけを食ってしまった。若干の英語力と海外経験。武器と呼べるほどの武器でもない。なのに今になって思い出してしまった。
僕はかつて小説家に憧れたのだ。
僕は世界一周がしたかったのだ。
その夢を叶えるには私はもう歳を取り過ぎただろうか。そうかもしれない。
あるいは働きながら小説家を目指しても良いのかもしれない。
働いて十分に貯金をすれば老後に世界一周をすることだってできるかもしれない。
そうではない生き方もあるのかもしれない。
この半年間、何も決められず無為に過ごしてきたがそろそろ結論を出さなければいけない頃だ。
・フリーランスで生きていけるようになる
・小説家になる
・世界一周をする
全て手に入れると決めた。